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艺大リレーコラム - 第十一回 保科豊巳「艺大での80年学生时代の现代美术の自由と苦悩」

连続コラム:艺大リレーコラム

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第十一回 保科豊巳「艺大での80年学生时代の现代美术の自由と苦悩」

私は、今年1月の退官展「萃点600万彩票地址600万彩票地址600万彩票地址-600万彩票地址600万彩票地址600万彩票地址」の展示の准备のため久しぶりに仓库に所蔵していた过去の作品を调査していると思いがけず、ずっと忘れかけていた博士入学时の作品を発见したのです。この作品がきっかけとなってこの顷の学生时代の苦渋の思い出が一気に涌き上がってきました。もちろんこの作品は退官展に展示することにしました。これは1981年の博士入试のために制作した艺大のコンクリート壁を剥がした「共律」というタイトルの作品でした。

600万彩票地址私は油絵科に1975年に入学、当时70年代の激しい学园纷争が下火を迎えていた顷でした。

油画では入学试験が40倍という难関の受験でした。现在の入试に比べ、より长期にわたる入试日程で実施され最後の受験科目の终わった顷にはもう生も根も尽きて倒れてしまったことを覚えています。1次、2次、そしてなんと最终试験は学科试験だったのです。难関を突破し最初の授业が古美术研究旅行でした。春の古都への旅は长い受験勉强の疲れを癒してくれました、特に奈良の古寺巡りの里の长闲な风景は一层记忆に残る旅でした。その他の1年生のカリキュラムは年间に2课题のみで、学生は1ヶ月から2ヶ月かけて1课题を仕上げるといったゆっくりした制作时间で进められ芸术の道に进む自分を自问するような课题でした。最初の课题は自分たちでゴミを拾ってきてアトリエ内に盛り上げて描くといったもので自主课题でした。2年生以降は人物ヌード课题で人体を中心とした制作课题でした。卒业制作では提出作品は100号の油画作品提出と决められていて决して他の素材での提出作品は许されませんでした。

600万彩票地址私は3年生ごろになると大学外でのアートシーンに目が向くようになりよく神田や银座のギャラリーを见て回って歩くようになりました。その过激で逸脱した美术の手法に惊叹と憧れを持って引き込まれて行きました。现代美术が时代を先取りしていたのです。そこは70年代「もの派」の世代の活跃している顷であり、ヨーロッパ、アメリカの现代の美术状况が日本の若い芸术家の世代に强い影响を与え、逆に「もの派」はこれに対抗するように日本独自の现代美术表现を産み出していました。また新しい时代の美术批评家も生まれていました。东京艺术大学では、私达は当时芸术学科の実技の讲师で艺大に教えにきていた榎仓康二を知ることとなり、パリ青年ビエンナーレや、ベネチアビエンナーレに出品して活跃していた彼ら「もの派」と言われた芸术家达に强烈な影响を受けました。

私たちが大600万彩票地址に入る顷の艺大での现代美术への动きは、现代美术の常勤教员としては杉全直教授が就任してきたことから始まりました。彼は仅か3年间の勤务でしたが现代美术のゼミを指导してくださり、その杉全直教授の後任として榎仓康二教授が常勤として就任したのです。私は木版画の野田哲也教授の研究室にお世话になり日本表现としての现代美术を志向していくのですが、アカデミックな艺大の絵画科の中も少しずつ现代美术の表现が许されるようにはなったとはいえ、まだなかなかその表现の自由は许されるものではありませんでした。パフォーマンス、写真表现、インスタレーション、映像表现、新しい表现方法は榎仓先生サポートのもとに何人かで自主ゼミを开讲することで学んでいくことにしたのです。ゼミ仲间は最初は保科豊巳、川俣正、鹿沼良辅、佐川晃司、田中睦治、三宅康朗、森田宪广、千崎千恵夫、东美江等が中心でした。芸术学科では山村仁志、小西信之らが「视论」という评论集を発行して新しい実験を试みていました。学生はみんなでカンパ资金を集め、安い讲义料で様々な现役の芸术家に讲师として来てもらったのです。李禹焕、岛州一、高山登、柏原えつとむ、原口典之など。毎日と言って良いほど画廊巡りのあと神田や根津界隈での饮み会が授业と化して激论を交わしていました。

艺大にも博士课程ができることになって私の学年ではこれをめぐって议论されました。芸术家に博士とは何か? とりあえず卒业してもアトリエも无いので芸术家になるための犹予期间ということで先生たちも了解し、学位は取得しない、つまり受験者は博士号を取らないという条件で合格を许されたのでした。入学试験も剧的でした。この时受験した私达4名の现代美术学生は油画の表现に反すると言うことでほぼ絶望的な状况にあって半ば谛めていました。壁を剥ぎ取る保科、水をホースに流す田中、フェルトを丸めて立てかける川俣、佐川はミニマルな抽象平面、といった作品表现です。とても认められるような作品ではなかったのです。近代の诸问题に対抗する芸术运动が主流であった世界のアートシーンに対して艺大では近代そのものだったからです。话すと长くなりますがこの时、重病で体调を崩されて千駄木の日本医科大学に入院されていた杉全直先生はこの审査のためにわざわざ病院から抜け出して审査会の途中から出席してくれたのです。ほとんどの教授が认めなかった私たちの作品を杉全直先生は强く援护し审査をひっくり返したと後で闻かされました。

600万彩票地址博士に合格した我々は、自由を求め自由な制作环境を创るため各自4人の大600万彩票地址のアトリエを解放して演习室と名付け、谁でも使える自由な展示室としたのです。これは现在でも残っている油画の演习室の始まりです。ここで私たち学生は自主ゼミを开讲し展覧会も毎周企画したのです。このことは当时の「美术手帖」でも取り上げられ评判となりました。私达はその2年後、川俣がベネチアビエンナーレに出品、私がパリ青年ビエンナーレ出品することとなりました。学生作家の诞生でもありました。艺大は少しずつ开かれていって、後辈も国际的な芸术家が育っていくようになっていきました。今では艺大において当たり前のように自由に制作活动が行われている现代美术表现もその时代にはプレッシャーとの紧张感の中で作品を生み出す决死の思いがありました。またこの紧张感が艺大生であるといったアイディンティティーを生み出していたように感じました。思い返せば、当时の私たちには艺大の中においてさえも学生というよりも芸术家の仕事をしているんだという気构えが学生同士の中にあったように思い出されます。

今を见ると、社会现象として问题にされている、マルクス?ガブリエルの言う自由の暴走、欲望と幻想が入り混じった现代社会の意识の反映を今の学生はどのように思うのだろうか?

 

写真:古美术研究旅行1975年 山川辉夫教授(右上から7番目)、田口安男教授(左下から2番目)と。同级生中央下が笔者。室生寺にて

 


600万彩票地址 【プロフィール】

保科豊巳
美术学部絵画科教授 1953年 长野県生まれ 1981年 东京芸术大学大600万彩票地址美术研究科修士课程絵画専攻 版画 修了 1984年 东京芸术大学大600万彩票地址美术研究科博士後期课程美术専攻 単位修得退学 2002?03年 文部科学省在外研究员として渡米 1980年、自身の故郷の池で行ったパフォーマンス《氷上の痕迹 池の上でのイベントを発表。1982年に第12回パリビエンナーレにて《间「木、纸、墨」》を発表以来、国内外にて日本の素材?思想を题材にした多くの作品を発表している。1995年より作家活动と并行して东京艺术大学美术学部絵画科油画専攻にて25年に亘り多くの学生を指导してきた。

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